昭和43年3月13日 朝の御理解    (末永信太郎)    №43-043



 神様のお働きの素晴らしいこと、素晴らしいこと。もう、本当に微に入り細に渡っての神様のお働きというものを実感せねばおられないのが、最近の合楽での信心。または、現われて来るおかげの、いわゆる、現われ方に対して、それを実感せんわけには参りません。
 本当、神様の素晴らしいお働きであろうか、と。今朝も神様のお働きの素晴らしい、素晴らしい、まあ、何と素晴らしいお働きの中におかげを頂いておることであろうかと、私は今、思わせて頂いておりましたら、あの、皆さん、ご承知のない方が多いかろうと思うんですが、あの、酒を作ります。酒が、こう、大きな、あの、(二十個分けでしたね、昔は二十個、こう入りですが?)、あれ、ちょうど、この、泡がこう、高泡がこう出て(来る)。ね。それで、それを、泡がこの、こぼれるですね。ですから、小さいあの、高放棄の、あの、竹の(結うたので?)こう作っとておるでしょう。あの、竹の(結うた?)のようなもので、その、泡の中をこう、混ぜるんですよ。そすと、その泡がずっと下がって行く。
 そういうような、この、情景を御神眼に頂きます。ね。本当にその、神様のお働きの、昨日は、昨日、一昨日から昨日にかけて、青年教師の方達が、ここで信心の布教の、まあ、研修会をなさいました。もう、先生方もそれぞれに、まあ、おかげを受けられたことであろうと思うけれども、それを、この、引き受けたというか、引き受けさせて頂いた合楽自体も、そのことによって、もう、大変、おかげを頂いた。
 まあ、第一の収穫は何と言うても、私が四時の御祈念をさせて頂けるようになったということです。もう、それだけじゃありません。もう、思うと、もう限りがないほどに、沢山、様々な、もう微に入り細に渡っての、そのお働き。そういうお働きの中に、例えば、皆さんもあるとですよ。けん、そこんところをですね、実感させて頂いて、まあ、神様の働きの素晴らしさ、素晴らしさと言うて、心に称える。
 ね、神様を称える。そういう信心が大事なのです。まあ、何と神様の働きの、もう、恐ろしいまでに微に入り細に渡って、このようなところにまで、こういう働きを下さっておるんだと実感させて頂いて。まあ、何と神様の働きの素晴らしいこと、素晴らしいことよ、と称える。ね、天気を称える、神様を称える。ね。
 そこから、私はおかげが頂かれると思うですね。おかげを実感しないと、その、素晴らしい、素晴らしいの言葉は出て来ない。ね。ところが、ただいま申しますように、その、酒を作る過程においてから、その、泡がこう、ふき零れて、発酵して来るわけですね。その発酵して参りますと、その泡が外へふき零れますから、零れてはならないように、その、小さい竹でその中を、こう混ぜる。そすと、その泡がダーッと引っ込む。ですから、もう、玄人、この、何人かの方が一蔵にかかっております、あの、泡が立つ時には。
 でないと、ちょっと油断しておりますと、どんどん、いわゆる零れたて、ちゅうか、もう、ふき零れるように零れるですね。そこで、ここで思わなければならないことはですね、いわゆる、あっちの神様はこの頃、発酵してござるといったようなことを言うですね。それは、お道では、それをごひれい、と。
 もう、あちらの教会はもう、その、隆々たる、その、ごひれいが輝いてござるげなと、輝いてござる。ね。そういう、一つの発酵なんですよ、言うならば。だから、それがですね、信心の実態ではないということです。ふき零れるようにあるということがです、それが、そのまま、なら、ここで言うならば、私の信心ではないということ。それは、泡のようなもんだ。ね。
 問題は、そこに、今、出来かかっておるところの酒がです、素晴らしい酒であるか。これが、例えば、腐っておってもですよ、ね、その酒は腐って行きよっても、発酵だけはするんですよ。ね。それこそ、カビの生えたような泡がどんどん出ますよ、腐りだしたら、腐れかかった酒は、腐りますとですね。
 ですから、この泡だけを見てから、有り難い、有り難いではいかん。これは、まあ、よく、色々、あっちこっちの教会で実感することです。ね。記念祭ともなると、どこでも、何とはなしに皆がこう、一生懸命になりますから、記念祭、ずうっと、こう盛り上がりが出けて、もう、それこそ、見事な記念祭が出来る。
 ところが、その後がスーッとしてしまう。ね。例えば、そういうような、記念祭なら記念祭のあった後に、そのごひれいがです、ね、次の信心の進めて行く上にです、いわば、手がかりともなって、また、足がかりともなって、一段と信心が進んで行けば、その、素晴らしい、その、お祭りならお祭りのごひれいというものを頂いたことになるのだけれども。
 ただ、泡が吹き零れておるようなのを見てから、大変なお祭りであった。ところが、それはカビの生えたような泡であった。出来上がっとる酒は、いわば、(酸いかったり?)臭かったりするような酒が出来たんじゃつまらんのです。ね。まあ、次々と、そのことを思うのですけれども、とりわけ、今度の青年実習会で、もう、本当に、まあ、ここのごひれいと、皆さんが信心を求められる、その意欲とは一つになって。昨日、最後に帰られるまでの、あの、神様の、もう、そのタイミングと言うか、その、働きの素晴らしさはですね、本当に、素晴らしい、素晴らしいと言わにゃおられんのです。ね。
 そういう中に、まあ、信心の、まあ、そうした布教研修会が終わらせて頂いて。ね。だから、なら、そのことを通してです、大変な、これは物入りではございますよね。お酒でも昨日、一等二升行っとる、二日間で。ね。それに、その、いわば、先生方、米三合と八十円持って来れば良いことになってるんです。
 ところが、そういうようなことで、それを賄えるはずもないのですけれども、ですから、まあ、言うなら実力のある、しかも、大きな教会で部屋がたくさんなからなければ、もう、あの、大きな部屋が、四つなら四つなからなければ、この、懇談が出けないような場合もあるんですよね。
 ですから、これはやはり、もう、まあ、ここ辺で言うならば、甘木とかですね、久留米とか、ここじゃなかなきゃ出来んのです。ね。実力はこちらにはないのですけれどもです、まあ、ここでお引き受けをすることになりましたから、皆さんが一生懸命になられてから、まあ、本当に、もう、先生方が、皆さん、もちろん、お世辞でございましょうけれども、もう、とにかく、あの、お広前が見事であることと同時に、御信者さん方の行き届いておられるのに、もう、恐れ入ってしもうた、驚いてしもうたと言っております。
 まあ、そげなよか事ばかり言わんな、ちった悪かとこも言うて下さいて言うて、言うところがない。まあ、言うて下さったんですけれどもです。というほどに、先生方もおかげを受けて下さった。まあ、言うならば、どげな所じゃろうかと、半信半疑で見えられた方達もです、もう、最後の、いわば会食に私は初めて出たんです。もう、それまで全然、私は顔出しませんでした、若先生が出ますから。
 ほれで私は、もう、最後の、いわば、お帰りになる前の会食に出席させて頂いてから、まあ、色々、お話を聞いたり、させて頂いたり、させて頂いて、もう本当に、もう、最後に素晴らしい雰囲気の中に、もう、おかげを受けた、おかげを受けたと言うて、まあ、帰った頂いたが。それよりも、もっともっと、おかげを受けたことは、合楽教会自体であるということ。
 そういうような、一つの模様しごとが一つの発酵であり、泡のようなものであってもです、その泡が素晴らしい。ね。その後に出けておるその酒が、いや、これなら、いよいよ素晴らしい銘酒が出けるぞという感じ。それは、私自身が感ずること。皆さんも、例えば、感じられるであろうようにです、ね、会長の津村先生ていう方は、高田教会の若先生です。
 金光、御本部の金光家からご養子に見えておられる方です。やはり、信心も立派ですし、気品のある方なんですねやはり。金光様の、今の金光様のお従兄弟さんに当たられますでしょうかね。そういう、その、まあ、方なんですけれどもね。もう、大変喜ばれる。これから、私どもの信心の上に、また、今までとは違った信心の、いわば方向が、まあ、得られたという意味のことをね、言うて。
 私もまた、今度の青年会のこれでは、もう、本当に合楽自体もおかげを頂いた。第一のおかげは、私が四時から御祈念をさせて頂けれるようになった事だと言ったら、もう、それが非常に感銘されたらしいですね。先生、とにかく、信心とは受け方ですなあ、受け方ですなあ、と言われるんです。
 最近、信心がですね、もう、これは、もう、今、金光教の信心の看板のように言われておりますのはね、肯定せずに、肯定しないでの生き方というものです。難しい、その、哲学的な言葉ですよね。が、今、その、打ち出されております。それは、どういうことかと言うとです、ね、教祖様の、これで済んだとは思いませんという生き方ていうことなんです。
 それは困りますよ、私の方は5時の御祈念ですから。6時半頃から青年教師の方が御祈念されると、まあだ、みんな御取次を頂いとる最中ですから、困りますというのじゃなくてですたいね、向こうから申し出も聞かれ、私も一段と信心を進められるためには、これは、私が四時の御祈念をさせて頂くより以外にはないということだ。そこで、私もおかげを頂きゃ、青年教師の方達も一緒におかげを頂けれるということになったわけなんです。ね。
 それが日頃、私の信心の中にです、これで済んだとは思わないという、肯定しないでの生き方というものが出けておったから、それが出けたんです。素晴らしいことですねえ、先生。素晴らしいことですねえち。
と言うてから、もう、そのことを非常に、あの、感銘されましてですね。まあ、おかげを受けたんです。ね。けれども、只今も申しますようにです、ね。それは、そういう一つの、現在のところで、まだ、泡にしか過ぎない。ね。その泡の中にもです、いわば、腐った酒でも発酵するということなんです。ね。
 そこんところを、私どもは確かめて行かなきゃならない。〇〇教会の記念祭に、これは、まあ、何と素晴らしいごひれいだろうかと、こう、何という素晴らしい御祭典であっただろうかと、こう思うて拝んで、ね。このまま、それを境に、また、この教会に一段とごひれいが立つだろうと、こう思う。ところが、それを反対にかえってごひれいが落ちるというような場合がある。これは、まさしく、酒が腐った、腐った酒が出けておったようなもんであって。ね。
 ごひれいのように見えておったのは、それは、泡であったということなんです。ね。ですから、それが、そのまま、合楽の信心じゃない。それは、泡なのだ。けれども、実態というのは、こうやって、竹の(へいこう?)で混ぜよるとです、本当の酒の(りょう?)ていうのは、グーッと引いてしまうのです。
 しかも、その減って行きよるその酒が、はたして良い酒が出けておるか、出けていないかということは、その後の信心によって分かる。そのことを通して、そのことから手がかりを得られたか。そのことが、一段と足がかりとなって、一段と信心が高められたか。ここにあるのです。ね。
 なかなか、神様のお心、と。先生、私がどげな信心したならよかじゃろうか、というようなことを、まあ、お伺いをされる方があるけれども。これは、なかなかね、アンタそこば改めんならんよと、アンタ、こうしなさいよとは、神様とてもね、神様のご意志であっても、その意思を氏子に伝えられないことが沢山あることなんです。皆さん、ここに行けばですね、分からにゃいかんですよ。ね。
 親子でもです、このことだけは、こんなことは言われんということがあるとですよ。ね。そこんところを、自分達が分かって行かにゃいかんのです。ね。最近言われておりますようにね、還元のことなんかていうものは、なかなか、これは言えれることじゃないです。ね。還元の生活に入れて、そこに本当の、ね、天地にお返しをする生活が信心生活だ、と。ね。
 それが内容とならなければ、本当の御用にはならないのだ、といったようなことは、チャンスを得なければ、聞けることでもなからなければ、言えれることでもないでしょうが。いつもかつも、あそこに、また先生が還元のことばっかり言わっしゃると、どげんなっですか。そげにゃ出けん、そげにゃお供え出けん。
 お供えしなきゃ助からんごたるなら、金光様の御信心などうかというような事にまでなり兼ねないのです。実を言うたら、本当のことなんです。けれども、それが言えないでしょうが。ね。今、私が取り組んでおりますのは、神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じことぞやというです、ね、その親孝行の信心というのは、かくなんだ、こうなんだと私が気付かせて頂いておることを、皆さんに伝えておる訳なんですけれども。ね。さあ、親孝行っちゃ、もう、こげな風ばい、こげな風にしなきゃ親孝行にならんよと言うて、んなら、言うわけにはいけないことがある。ね。
 神の意志、ね、神の心。神の意志でも、それを氏子に伝えることの出来かねるようなこともあるけれども、そこんところをお互いが悟って行かなければいけない。昨日一昨日の御祈念の後に、久富繁雄さんが御神眼を頂かれた。それを、昨日の、昨日一昨日頂いてから、朝の御祈念に。だから、そのことは、もう、間違いなしに総代達だけでもいいから話し合って、ね、その、段取りを取って下さいよと言うて、私はお願いしておった。というのは、ちょうど、青年教師会の初日の日である、その朝である。
 ここで御祈念をしござったげならですね、もう一膝進めよというお声を頂いておられます。もう一膝進めよ、と。どういう事と思うですか。それも、その、まあ、繁雄さんの心の中に感じられることなんです。ははあ、今度の青年教師会のことだなという感じなんです。
 もちろん、もう一膝進めよですから、お参りが沢山ありゃ、もう、一押し、お詰め下さい、お詰め下さいて言うでしょう。ね。この辺のところがです、本当に神様のお心をです、こうやって伝えて下さった。普通では伝えにくいこと。これは、神様ではない、私がみんなに伝えにくいこと。例えて言うなら、私が神ながら主義である。例えて言うと、今日明日を、ね、先日の言葉で言うと、今日、明日、こう、青年教師会があります、と。明日の御祈念を皆さんが一緒に頂かれます。その時にはすでに、合楽の信者がお広前いっぱいに詰め掛けておった。それは、ちょうど寒修行の時のように、ね。
 例えば、あの時分くらいのお参りがあって、お広前がいっぱいであるならばです、入ってきた先生方は、どうぞ、もう一膝お進め下さいと言わなければおられんぐらいあった。それが、どういう結果になるかと言うと、なるほど、噂に違わず、合楽の信心は素晴らしいということになるのですよ。
 それは、泡のようなひれいではありましてもです、それが、先生方が受けられる信心の実感ていうものは、また、格別なんだ。ところが、昨日に限って、いつもより少なかったでしょう。ね。繁雄さんが、そう、言うちゃないわけです。ね。明日の朝の御祈念は、青年教師会がみんな見えられて、ね、だから、演出するわけではないけれども、さあ、いつもは参らんモンでも、朝参りして。
 例えば、寒修行に参った時のように、いつもは朝参りが出けない者でも、さあ、今朝は一つ、朝参りをさせて頂いて、それが、合楽のごひれいになることならばです、というような、人間心を使いなさいよと、私としては皆さんに言えないことでしょうが。
 明日の朝の御祈念は、青年教師の方達と一緒じゃから、ね、ここのごひれいを、本当に、ごひれいと感じさせるために、ね、演出してからでも沢山参って来なさいよ。私からは言えないことでしょうが。それを神様はです、神の意志をですね、神様のお心を、繁雄さんを通して、総代の繁雄さんを通して伝えておられるのだから、そのことは、今日、総代たちに言うて下さいよ。そして、そういう手配を信者いっぱいに取って下さいよとお願いしてあったけれども、昨日はいつもよりも少なかった。
 朝の御祈念までは、いやあ、秋永先生が言いよった。まあ、朝の御祈念が、だいたい百名ぐらいですと、こう言うとったち。ところが、見てみなさい。昨日はどうでしょうか、20~30人ぐらいあったじゃろうか。先生教師の方達が出てきたから、ようやく、ここがいっぱいになったぐらいな事だった、あらあら。
 ね、あれがどうでしょう。ね。寒修行中の時だけの人間がもし集まっておって昨日の朝の御祈念になっておったら、どうぞ、前にお詰め下さい、お進め下さいと、例えば、マイクで流しでもごらんなさい。はあ、なるほど、信心っちゃ有り難いもんだなあ、こういう、ごひれいも頂けるものだなと、若い先生が奮い立つ思いがするだろうと、私思うです。
 これからもあることです。ね。それが、教会愛なんです。ね。教団愛と言われます。ね。教会を愛するならばです、ね、それで親先生の顔が立つならばです、ね、日頃お参りが出けない者でも、進めてお参りをして来るというのが、私は、いわゆる教会愛ではなかろうかと、こう思うのです。ね。これなどは、例えば、私からとしては、私の口からとしては、総代さん、あんただん、日頃は参って来よらんモンでん、引っ張って来て下さい。でないと、お広前が少なくておかしかけんで、と。
 こういうことは、私は口を腐ってでも言わない流儀なんです、私としては。ね。けれども、そこにです、氏子の信者の皆さんがです、それこそ、痒いところに手が届くような、信心は親に孝行するも同じことぞやという事になって来る時です、親先生の思いを汲んで、そこに痒いところに手が届くような信心させて頂いてこそ、銘々がまた、痒いところに手の届くようなおかげも受けられるのである。
 それに何ぞえい、昨日は反対に少なかった。もう、今夜は繁雄さんが参って来た時に、いっちょ、うんと怒っとかにゃならんと言うて、昨日、私は張り込んどったですけど、昨日は夕べに限って、参って来らっしゃらん。ね。そういう大事なことを神様から頂いておって、それを、総代としてから皆にも、ね、振りも回していなかったという事がなんです、言うならば。ね。
 それが神様、なるほど、色々とつがめ合わせて下さってもです、これからの、例えば教会行事といったような時には、そういうような心掛けがなからなければです、ね、今、盛んに私が言うております、神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じことぞや、という信心になって来ないの。ね。
 昨日の昼でもそうです。昨日一昨日は、みんな、青年会とか総代さん方、まあ、あらあら集まって、その皆さんとの、まあ、お広前にウロウロしておるだけでも、はあ、本当にここの信者さん方は行き届いちゃるなあ、という感じを与えた。昨日は、誰も来ん。秋永先生、高橋さん、茂さん達が2~3人おっただけであった、御用があるのに。前の日はあれじゃったばってん、明くる日は誰も来ん。ね。
 そういうようなことではね、親に孝行するも同じことぞや、という信心は、聞くばっかりでです、皆さんは分かって行きよらんということになる。ね。神様のお働きは素晴らしい、神様のお働きが素晴らしい。その素晴らしい働きをいよいよ素晴らしいものにするために、自分が実感して、素晴らしいと実感させて頂けれるためにです、ね。教会的、あんた、行事があるとに、総代が家の中でのほほんとしておって良かろうはずがないじゃないの。どげな風になりよるじゃろうか。
 と言うて、言うなら、心を使うて出て来るぐらいなことが出来なきゃ、総代の値打ちはないじゃないの。それは、泡のようなものであっても、ね。だから、私はです、例えば、そういうことの中から信心を頂く。ね。まあ、これは私一人の考えですけども、はあ、今度の青年教師会でおかげを受けたのは、私だったなあ、とこう思うのである。青年教師もなからなきゃ、皆さんでもない。ね、皆さんとても、なら、そのことに取り組んで、そのことを通して、なら、おかげを受けて下さることは有り難い。
 けれども、一番おかげを受けたのも、やはり、私であった。ね。肯定しないでの生き方、これで済んだとは思いませんという生き方が、そういう風に叙述に現われた。ね。朝の御祈念が四時からということに現われてきた。ね。手がかりに、手がかりを求めなきゃならん。ね。そして、足がかりとして、一段と信心を進めて行かなければならないと、最近頂いておる、その、信心をです、ね、教えを本当に、行の上に現して行かなければ、信心は進みません、本当の良い信心が生まれません。
 幸いにして、その泡、さっきも申しました。泡そのものが、ここの信心じゃない、と。内容は、まだ小さいものだけれども、発酵してござる。今、ごひれいが、今、ここでは特別の神様の働きがありよる。だから、こうやって、泡をふいておるような状態だけれどもです、これは、また必ず、泡が消えて、中身だけのことになって来る。その中身だけになった時にです、その中身に出けておった酒が臭かったり(酸いかったり?)するのではなくて、ね、本当に銘酒と思われるようなお酒が、ね、出来るというところに、そういう一つの様々なことの、その次に来るもの。その次に進められるところの信心というものにです、また、新たなおかげが伴うて行くということは、もちろんのことなん。ね。
 そういう風にして、皆さん、信心を進めて行かなきゃいけんですよね。どうぞ、今、繁雄さんが頂かれたという、一膝進めてということ、ね、ことは、これからの様々なことに、いわば、教会愛というものがお互いの信心に育って行くなら、その教会愛こそはです、親に孝行するも同じことじゃということになるのじゃないでしょうかね。どうぞ。